サイベルカス

あたみん

山尾悠子『飛ぶ孔雀』について――消退・ノスタルジア・相転移点――

 『飛ぶ孔雀』が『不燃性について』に続くのに象徴されるように、というか本編で描かれていることだが、山尾悠子は「火を継ぐ」ことを契機として登場人物が火のモチーフのあるあらゆる道具を対象化したときに火種のようなものが喪われていくような世界を描いている。貨幣や情報が自己増殖のために人間の目的を事後的に捻じ曲げるのとは対照的に、人間が道具を使うと火としては縮減していく。火の喪失と並行して貨幣の交換が籤によって阻害されることと会話や噂話を素地としてコミュニケーションがなされることが描かれ、全体として自己製作する《道具》という今日的な光景が消失する。その過程を描くことそのものがノスタルジアを描くこととパラレルであり、綺麗な軌跡として作品(郡)を成しているのが本作である。

 

 〈私的〉に読めば高橋弘希送り火』(第159回芥川龍之介賞)と星野智幸『焔』(第54回谷崎潤一郎賞)もタイトルのとおり、〈火〉を題材としていた。三作に共通する運動は「火を継ぐ」ことである。

 高橋弘希送り火』においては、「育ちのいい」転勤族の語り手の感じる不吉さと青森の少年たちの秘めた土着の暴力性が「送り火」の祭りに収斂し、語り手が被暴力に曝されたとき、視界の端に送り火が到来する。土着の不吉さといえばジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』においても描かれていたが、本作は生まれ育ちを別の土地に持つ語り手が土着の不吉さそのものと距離を縮めていき、最終的に祝祭に収束する。

 星野智幸『焔』においては焔を囲む複数人の語り手(語り部)が互いが互いの物語の器となることで火を継ぎ、いくつもの小さな焔とその輪を形成する。

 どちらも形は違えど――一人の語り手が自らを犠牲にして送り火の器となるか、互いが互いの焔の器となり、複数の小さな焔を継いでいくのか――、人間が〈火〉の器となる。それに対して『飛ぶ孔雀』では「火を継ぐ」腹違いの姉妹は異なる器を持って儀礼的および象徴的に火を継いでいく。飛ぶ孔雀による阻害もあり、手ざわりの痕跡だけを残しながら「火」のモチーフをもつ文明の一部分だけが丁寧に消退していく。

 

 描写されていることの美しさ、筆致、についてはここでは評釈しないが、本作は今日的な状況をうまく捉えたうえで、〈火〉という〈燃え広がる〉性質の消退を〈不燃性〉として描くことで、〈貨幣〉や〈情報空間〉という自己製作/自己増殖する《道具》の作り出した世界のゆるやかで部分的な崩壊とノスタルジアを描きえている。〈火〉を効果的に媒体として用いた舞台設定が、現在の情報空間を足場としたものであり、その縮減において情報空間の特質だけを反転させている。この設計が情報空間および貨幣に強いられたものであるのか、作家によるものなのか、強いられたものであるとして、それを書きうるのは山尾悠子だけと思うけれども。

 

 ラトゥール、マクルーハン、セール、フーコー、レヴィ、ハイデガー、彼らの思想はある側面では自律性をもった道具についての予期であった。それは監視社会―今や作品のテーマとして一般的になり、テクノロジーが現実化しつつある―への警戒感や新たなメディアへの期待感、あるいは人間を再定義しうるものの到来予測として描かれた。

 今日これらの文章を読むと、中国の先進的な地域や欧米における大量な監視カメラの設置とその用途―行動パターンを検出し、犯罪リスクのある者を施設に収容する等―についての話であったと納得されるし、SNSのつくりだす巨大な情報空間は人生の行動原則さえも発信ベースに変容してしまう。薬剤の新規開発においては、入力後即時にコーディング・蓄積・個人情報のマスキングされるシステムを活用した解析ベースの研究の動きが加速している。― 入力されるデータはコード化ができるだけ簡単にできるものが好まれる。人間を診療している以上小説的な冗長性を含む医学データは、観察研究の観点では冗長性を含まない定量的な値と定性的な軸で評価されたイベントの側を好む。人の感じていることが医学上/臨床上どう評価できるかを判断するためには、他者に向かって越境し、主体としての手ざわりを把握する小説的な身ぶりが求められる。標準化のプロセスで削ぎ落とされた「その人の手ざわり」がデータに反映されたことを示す冗長な記録は、一定の記載規則に従ったものになると同時に、きわめて小説的なものにもなりうる。「痛みが痛い」という典型的に忌避される表現さえも妥当性をもつ―

 情報がその量および標準化可能性―貨幣との大きな違いはここにあるのだが―の増大を目指して人間の行動原理を変容させているかのようでもある。

 

 一方で、冒頭で指摘したとおり、本作で描かれるのは〈火〉の消退する世界であり、人間たちの振る舞いによって〈火〉は〈火〉自身を縮減してしまう。腹違いの姉妹の火を運ぶ儀式が飛ぶ孔雀によって阻害され、火を媒介とするもの―エンジン、蝋燭、ライター、煙草など―は機能不全に陥ってしまう。 腹違いの姉妹が火を運ぶ時点では、《道具》を用いる人は火を継ぎ、火は火自身を増大させることを目的とし、人間の目的を捻じ曲げつつも目的の一致を果たしている。 飛ぶ孔雀は外部系のように振る舞い、ときに火を失わせる。この振る舞いは(単)自然と(単/多)文化の二項対立における自然のクラシカルなメタファーである。この出来事によって〈不燃性〉が前景化し、文明を基底づける〈火〉〈貨幣〉〈情報空間〉が機能不全に陥る。情報交換が会話や噂話をベースとして描かれるようになったとき、その発話とは情報と手ざわりの混淆であったと再認させられる。道具が人間の目的を事後的に定義づけていた世界からのゆるやかな反転とそれに伴うノスタルジアが岡山を舞台に描かれている。それは好奇心のままに振る舞っただけでリソースが枯渇してしまう世界であり、貨幣や情報が物質性を伴って過剰に増大していく世界とは逆に、人間の行動によって、あるいは文明によって火が失われる。カオスとカオスの臨界状態として捉えれば相転移点の文学であり、相転移ノスタルジアを感じさせうるものだとわかる。〈情報空間〉が象徴的な人間の《道具》として扱われ、《環境》にとって変わり始めたときに失われる手ざわりについて、〈情報空間〉以前から真摯に文筆を行ってきた書き手は苦悩する。だからこそ久しぶりに書くことは喪われてきたことを仲間にし、死者/廃墟とさえも共存し、美しい描写を為し遂げうる。〈恢復〉という相転移の恩寵が真摯なものたちにあたえられる。そんな希望さえも〈不燃性〉のノスタルジアはあたえうる。その象徴的な出来事を、孔雀の飛翔がになうことの美しさよ。

 

 

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 上記の文章は『私的文芸年鑑』のために執筆された文章である。本書には2018年1月から10月までの文学賞受賞作についての文章と、それらを踏まえた実作(小説と批評)が含まれている。本文で言及した高橋弘希送り火』および星野智幸『焔』についても文章を掲載しているので、下記のサイトから手にとっていただければ幸いである。

atami.booth.pm