サイベルカス

あたみん

展示「オントロジカル・スニップ」を“見て”――外部に対して頑強な〈失礼な作品〉についての試論

合同展「オントロジカル・スニップ」を見てきた。

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まず、Webサイトに書かれた展示の概要は以下のとおり

 

“ 芸術作品における「個性」あるいは「作家性」とは何だろうか。それが如何なるものであるかという問いも然ることながら、それを如何にして表すことができるのか、あるいは如何にして知ることができるのかという方法論も、私たちを没頭させてやまない。くり返し現れるモチーフや、制作に普遍的なテーマなどに注目すれば、作品の造形的な相貌あるいは概念的な位相の両面から作家の「スタイル」を語ることが可能かもしれない。しかし、目に見える所与の結果だけに拘泥するのではなく、私たちは作家の「内面」を追跡しようと試みるべきではないだろうか。そのためには、作品を完成された静的な対象として読み解くのではなく、それが生成されるプロセスを辿ることが必要である。

 作家たちは何を世界から切り取ったのか、何故それを切り取ったのか、如何にそれを切り取ったのか――これらの問いが、作品の現前化されるプロセスへと至る手掛かりである。ここでは各々が有する固有の分節を「作家性」と捉え、エピステモロジーに還元できない特異性にこそ思考を巡らせてほしい。”

http://hgrnews.exblog.jp/23342289/

 

 

 制作の過程を追わせることによって鑑賞者への異化効果を促しその知覚をよりそれらしくすることは、ひとつの重要な主題とされてきた。そのひとつの更新がこの展示には織り込まれている。

 入ってすぐのところにあるのが三木仙太郎さんの「庭の木の枝」。2mほどの樹の枝が置かれている。その周りに、枝を避けるように削りとられた幾つかの部屋の断片が接着され、枝を囲んでいる。部屋の断片、と言ったのはそれが棚状のものにとどまらず、A4ファイル用の書類立ても含むからだ。様々な角度からの鑑賞を促し、覗きこませるようなところがありながら覗きこむ際には木の枝が目に刺さらないように気をつけなければならない。夢中になりすぎると怪我するぞ、という危機感は、心地良い感覚で、また童心をくすぐる。

 壁面には名倉聡美さんのふたつの絵画作品、「鶴」と「逆上して来られた場所」。モネを思い出させる色使いで筆使いを極度に強調させた彼女の絵は、彼女の意図として描かれたような横顔や鶴と、偶然そこに見いだされる像の一緒くたである。わたしたちは彼女による制作の過程の無数の可能性を一度に追体験する。現前した作品に対していくつもの連想とともに前世のことまで思い出す「想起」と筆の流れを追う異化効果、カンバスの猛り狂った基底が押し寄せる、というような批評をするすると滑り抜けていく、あの絵画でしか伝えられない感覚がもっともそれらしく、まさに「見る」しかない、のだし、際限なく見続けるべきだ。

 2階には齋藤 帆奈さんの「存在と認識のあいだ」 壁面をスクリーンとし、投射するプロジェクターとの間にマニキュア・デカルコマニーによって模様の付けられた蝶と制作に用いられた百円均一のマニキュアが吊るされている。光源とスクリーンのあいだ、という存在と認識のあいだ、まさにベルクソンがイマージュを見出した間隙に、作品が置かれている。それが存在と現前のあいだ、であるのならばそこにデリダは遅延を見出すだろうし、ベルクソンの『物質と記憶』における比喩のそのままという論理的単純さを、蝶の個物性が阻む、という捉え方をしてみれば普遍と個物のあいだ、ということになり、間隙という部分が更に部分を生成する。この部分同士の貼りあわせと全体、にもあいだがあり、ひとつの作品全体と、鑑賞によって部分の張り合わせとなった作品のあいだもまさに「存在と認識のあいだ」であり、作品内部に織り込まれた関係性が作品と鑑賞者の関係性ととってかわる。「存在」と「認識」の描像が徹底的に動的であるのと対照的にそのあいだは徹底して静、であるかに見えて、よく鑑賞者と衝突して思わぬ動きを見せる。見ている間も何人かぶつかるし、こわれなくてよかった。さまざまの間でありながらさらにあいだを生成して揺れる。透明なアクリル板の上にも蝶が置かれていて、二階の床の一部がアクリル板になっているという構造を効果的に利用している。

 その対面には石橋友也さんの「金魚のコンポジションの実験」。本来流れのないところに棲む金魚を、流れのある中に泳がせることを試み、そのときの金魚の様子を撮影、映像の端と端をつなげ環状にし、それを鏡に写す。さらにその鏡を割り、そこに映った金魚を毛筆で描く。このプロセスにおける各ステップが、展示されている。石橋さんいわく、割れたガラスに映った金魚を毛筆で描いたものは、曼荼羅と要素を共有するらしい。つまり、流れのなかを泳ぐ金魚から曼荼羅めいたものを制作する過程を描いたものであるらしい。「金魚好きだったらこんなことしないでしょ」という台詞が倒錯めいてステキだった。

 

 この齋藤さんと石橋さんの作品との間に、二人の合作であり、この展示の表題作である「オントロジカル・スニップ」が展示されている。作家名と作品に対して与えられた感想をもとにセミラティスを作成し、その各点上に書かれた複数の感想の最大公約数的なモチーフを置く、という構成になっている。”鮮やかな”であれば試験官に挿された花、というような具合である。セミラティスとは何か。ラティス、とは様相論理における束であり、束は本来対称性を形作る。しかし、この作品で提示された束状のものはそれを逸脱する。つまり、簡単に言うとセミラティスのラティスとは束のことで、セミはセミファイナルのセミだ、ということである。準ラティスである。さらに、この「オントロジカル・スニップ」にはセミラティスの形成ルールからも逸脱している点が複数ある。一点目は、この束が下に閉じておらず、また、作家の名前全員と対にされた作品に与えられた感想が、空集合ではないという点だ。g:作家名(作家の作品に対するメニトミーと捉えても良い)、m:作品に与えられた感想とした場合、それらの要素をすべて集めたものをG、Mとして、上端は{G,∅}、下端は{∅,M}とならなければならないのだが、G={石橋友也,齋藤帆奈,名倉聡美,三木仙太郎}たる上端は、∅ではなく2つの言葉と対になっている。一方、下端は各作家一人とその作品に対して与えられた多くの言葉、となっていて作家名が∅となる点が存在しない。ただしこれは、「オントロジカル・スニップ」がセミラティスではないということを意味しない。この作品は、あるセミラティスの〈部分束〉なのだという。だから、{G,∅}とか{∅,M}は省略されているらしい。二点目は、与えられた言葉同士の上下の繋がりが、部分集合を取り結んでいないという点だ。包含関係か順序関係を形成するように束はつくられるのだが、その束の生成原理を徹底的に無視している。これではさすがに束はつくれない。しかし、言い換えを駆使して包含関係を形成するように作った、と言われれば、「はぁ、そうなんですか」(これが「失礼な感想」を対象化した作家がとるべき反応であるらしい。聞き流してしまうということ)、という感じで、「失礼な鑑賞」に対する作家の反応を真似るように、〈失礼な作品〉に対する鑑賞者の反応として、または作家の真摯さを信じた結果として、それを信じることは可能である。三点目、要素の貼り合わせたる各点に置かれた事物が、包含関係を持っていないことである。事物同士の包含関係を持たせる、ということは、この場合は簡単に事物同士を張り合わせてしまうことで実装できるはずだ。とりわけ〈失礼な作品〉は、「レディメイド」のものを各点に配置することもコンセプトとしているのだから。その手がありながらやらないというのは、事物同士を束で関係づけることをはじめから放棄していることにほかならない。

 要約すると、「オントロジカル・スニップ」の提示するセミラティスの部分束は、各作家の作品に対する認識として与えられた言葉はぐずぐずであっても束を形成しているが、その点上におかれた事物は束を形成しないばかりか、束を逸脱して個物として我々に様々な想起をさせる、ということである。

 この作品と対峙したとき、どのような関係を持つのかわからない「レディメイド」が線によってつながっている、という状態を目にする。一度身が硬直して、その背後になにやら作家名と認識から与えられた言葉のタグがついていることに気付く。そのぐずぐずな包含関係がセミラティスの部分束を形成していることがわかり、床に置かれたクリアブックにもその旨が書かれていることにも気付く。一見わけのわからない関係を持った事物は、実は単純な関係性しか取り持っていない。なんということはない、簡単にわかる単純な関係と、本当はない複雑な関係があるだけだ、とわかる。そして、束の各点同士に単純な関係性しかないことに動揺した結果、複製されて製造された製品を対応させておけば鑑賞者が勝手に硬直するだろう、というように、小馬鹿な顔をした鳥のソフビ人形を祝電のように装飾し、とりあえず試験管に花を挿しておき、というように行き当たりばったりで置いていったのではないかという推測が真実味を帯びてくる。となれば、身を一度硬直させ、アルトーの言うような死を経てより荒唐無稽な生へと転生するような、石になることを私たちに許してくれるのではないか、という期待を持たせてくれた要求してくれているかに見えた作品は、各点に凝集した言葉に対して安易にものを選んで置いただけの〈失礼な作品〉、ということになる。

 束を用いた〈失礼な作品〉の生成原理に、関与していたのが存在論的なアプローチではなく極度に認識論的なアプローチであることを知ったとき、当初は「エピステモロジカル・スニップ」という題がしっくり来るはずであった〈失礼な作品〉は、ハッタリのようにして行き当たりばったりに「レディメイド」を置く局面で「オントロジカル・スニップ」という題に変更され、そこにまたハッタリを効かせたように思えてくる。「オントロジカル・スニップ」という題が先であれ「レディメイド」が先であれ、ハッタリと行き当たりばったりを推察させることに変わりはない。

 

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「オントロジカル・スニップ」の企画書ではないが、epistemological-snip(仮)という題をなにか作品につけようという構想はあったようだ。

 

 行き当たりばったりに作品がつくられること、これを批判しようという向きもあるかもしれない。しかし、わたしはこれを採用しない。どの程度の計画性を伴った意図や当初の予定からの変更なら行き当たりばったりではないのか、というような生産性のない話になりかねないし、「環境」や「メディウム」は、その行き当たりばったりな変更を私たちに促す。例えば、絵画の制作において、基底材が筆を押す力や画材の吸着率は決定できないのだし、それを受容することは行き当たりばったりさを伴う。つまり、意図や当初の予定から、作品というものは乖離して当然のものなのである。デュシャンの「芸術係数」の議論はまさに、この乖離を前提としている。「芸術係数」とは、要約すれば、生ずる意図や当初の予定と作品の乖離に介在する係数であり、制作の工程において生ずるものである。制作のあと、そのままの大きさを保って行き場のないかに見える「芸術系数」は、今度は作品の鑑賞を呼びこむ器になるのである。その意味で、制作による意図と作品の乖離がある限り、鑑賞者なき作品というものは構想できなくなるのだ。ここにおいて制作の行き当たりばったりさは擁護される。「芸術係数」の萌芽となるからだ。ある種の行き当たりばったりな制作は、シュルレアリストの運動にだって、見出すことはできる。もし、そこに作品が現前させているのにも関わらず、作家さんが意図に拘泥する、ということがあれば、それは「芸術係数」を0に近づける試みにほかならず、今度は鑑賞を拒絶する方向へ向かうだろう。

 

 ハッタリについてはどうだろうか。この種のハッタリは作家さんによる説明によって隠蔽されている。ハッタリが煤けて見えても、それに目をつぶって知ったことを言わなければいけない感じがしてくる空気感は蔓延しているし、過度な説明がそれを助長する。説明を前提にした作品が多すぎる。例えば、石橋さんによれば「金魚のコンポジションの実験」も「オントロジカル・スニップ」も、曼荼羅をテーマに作品を作ってみたい、というところから始まった作品であるという。「金魚のコンポジションの実験」の色使いや筆致は曼荼羅のそれであり、「オントロジカル・スニップ」におけるセミラティスの幾何学性は曼荼羅における神の配置の幾何学性の写像なのだという。石橋さんによれば。私はブッダの生誕地のルンビニで寺院巡りをした経験があり、それなりに多くの曼荼羅を見てきたのだが、色遣いや筆致は曼荼羅のそれというようには感じられず、むしろ書道のそれであるように感じられたし、そもそも束は幾何学的模様を示さない。包含関係を示す結びつきが提示されていたり、順序関係が守られてさえいたりすればその距離感はなんでもよいのだ。しかし、曼荼羅がどのようなものか知らず、束がどのようなものかも知らないままに作家さんの説明を聞いてしまったら簡単に騙されてしまうだろう。

 

そしてこの隠蔽は、ハッタリをかましてある種の露悪性でもってそれを現前させていく、という手法を取るアーティストとは全く異なっているのだ。この隠蔽は、なんでもないようなものを何かあるものとして見せているにすぎない。「レディメイド」によってアートが、「なんでもないようなものを何かあるものとして見せているにすぎない」のではないか、という問いが鮮烈に作品によって提示された頃とは事態が異なっている。時間が過ぎた、とかそういうことを言っているのではなく、鮮烈であったはずのこの提示が、カント美学に端を発する〈芸術というものの問題が芸術を見出す主体の問題にすり替わってしまったこと〉と手を結んで、芸術でもなんでもないものでも、とりあえず現前させてさえおけば芸術を見出す主体だと思われたい鑑賞者が勝手にそれを芸術化してくれる、というサイクルが廻り続けているということを言っているのだ。カント美学に対する極端な単純化を行って文脈として共有してしまったことが問題である。鑑賞者が「それは芸術ではないぞ」と何かのアート作品に対して言ってのけたとして美的主体を剥奪されるということはないのだ。他者との摺り合わせを行ったとしてもそれは、ポジショントークにしかならない。作品も鑑賞者も共に客体なのではないか、という思想領域さえ既にある。そこにおいては能動/受動、ということも問題になる。

 

 この状況は時代的なものなのだろうか。例えば、「理想の時代」、「虚構の時代」に続く「不可能性の時代」として芸術を見出す主体になることが不可能になったような気がする、とか、循環する思想的流行のなかでそういう時期にある、リベラルアイロニズムの再来、とかいうことはあるのだろうか。循環史観めいたものは様々な時代の様々な領域の思想家によって提示され、その相互が矛盾している。まず、サイクルの年数からして異なっているのだ。煎じ詰めれば、局所的に自らの示した循環史モデルにあうようにサンプリングしてきて、それを取り纏めただけのものが散見される、ということである。それらの取り纏めはそれぞれがそれぞれに明晰さをもっている。大局的に見た際にもそれに拘泥する、ということがあればそこに明晰さは欠片もない。複数の循環史が矛盾を孕んでいるところにどのような描像をつけていくか、というところにまた批評家の腕の見せどころがある。ならば、「不可能性」などのタグを大局的に見てつけていくことはそれこそ「不可能」かもしれない。しかしこれは、芸術の特質であると思う。この時代にタグをつけるという試みは、政治、社会、経済、歴史を接続するために行われたものであった。それらにまつわる時代総括的総評は、未来を演算する装置としては優秀でも、哲学や芸術の問題に何も与えない。哲学や芸術は、総評を対象化しないままにたえず逸脱し続けるからだ。それと比べたとき、「とりあえず現前させてさえおけば芸術を見出す主体だと思われたい鑑賞者が勝手にそれを芸術化してくれる」というサイクルを利用した種類のアート作品は、タグを逸脱するというよりはむしろ、それらの安易さを排除する機構を欠き、書き手の精度を信じるしかないような総括的総評(ここにも書き手の精度を勝手に信じてくれるだろう、という欺瞞を持った書き手が入り込むことが在る)に奇食するだろう。

 

 〈失礼な作品〉は芸術と開裂を挟んだところにある時代総括的総評から逸脱しないところでアート的批評性を捏造し、捏造を隠蔽する、というような感想そのものが「失礼な鑑賞」として対象化されてきたものであり、「はぁ、そうですか」と言われてきたものである。製作者が束だとか曼荼羅だとか説明してくれているものに対して整合性がないからといってそもそもの作家さんの「意図」を無視していいのか、というところがある。〈失礼な作品〉と「失礼な鑑賞」が互いに互いを増長させる。作品を立てれば鑑賞が立たず、鑑賞を立てれば作品が立たない。そのはずなのにここまで強固に作家さんの意図よりもエビデンスを優先した〈失礼な感想〉を述べてきたのは、「オントロジカル・スニップ」に用いられた束から創発する論理が、矛盾を共立させることに用いられているからである。GとMが同時に両方の要素を充足することがないという双対構造を、どちらにも寄り添うことなく共立させて現前させるのが、束の特質だからだ。制作者の意図を無視して論じることと鑑賞者を無視して展示することの双対構造、その共立が可能となるのが束の性質である。

 しかし、これは完全な束の場合のことである。「オントロジカル・スニップ」に用いられた束において省略されているのは作家の側ではなく、作品に与えられた感想から抽出した言葉の側である。作家全員の集合には作家が抱いた感想が対応し、作者の意図を無視した鑑賞は作品から排除されている。現前した作品と意図との乖離=「芸術係数」を完全な束の一部をカットすることによって系の外部に追いやること、それは作品を鑑賞するための器を系の外部に追いやることだ。もしくは、「芸術係数は無視します。」 芸術係数=0、ということではない。意図と作品の乖離=鑑賞の器はどこかへ行ってしまった。さよなら芸術係数。だから、〈失礼な作品〉のままでよいのである。はじめからその反対側にある「失礼な鑑賞」は作品の中に織り込まれることを拒絶されているのだ。作者を不在とするような作品の鑑賞によって与えられる感想ははじめから黙殺されている。〈失礼な作品〉は鑑賞されても制作者の手を離れない。エビデンスに作者の意図は介在しないからこの部分束には含まれない。「見られる」ことに対する頑強性をそなえた作品である。「オントロジカル・スニップ」には〈失礼な作品〉が現前することの整合性が鮮やかに示されている。

 

 それぞれの作品について書いてきたが、批評家の飯盛希さんは、未だ前景化していない。出展者一覧に、ひとりだけ批評家として参加している飯盛希さんである。批評家としての参加とは言っても、キュレーションとして参加しているというわけではない。キュレーションをしないという形での批評家としての参加だ。「ただ、並べる」、まず「見る」という仕事。むしろ、黒子に徹している飯盛さんの仕事が前景化するのはこれからであるようだ。背景の前景化は芸術のひとつの重要な主題でもあるし、そこで飯盛さんが批評家としてどのような仕事をするのか、とても楽しみである。私が楽しみにしているのは、飯盛さんが展示や作家に対してどうポジションをとるか、ということではない。重要なのは、批評家として何を指摘し、説明し、軽妙な芸を見せ、展示に参加している批評家として他の批評家たちをどう煽っていくか、ということである。