サイベルカス

あたみん

Profile and Links

2020-

寄稿やジャグリングのご依頼はatami97531@yahoo.co.jp迄

 

webマガジン「ユニコーンはここにいる」にてメイクとジェンダーについてのエッセイ「なみうちセクシュアリテ」を連載中

ユニコーンはここにいる|note

 

日記:あたみ りょう|note

 

ジャグリング:コロナ禍では庭でEJCを開催する日々

 

2020

株式会社Xemonoのpodcast「落丁ラジオ」にゲスト出演

anchor.fm

 

 

2019

『かわいいウルフ』にヴァージニア・ウルフ『サーチライト』の書評を寄稿

woolf.ofuton.in

深緑野分さんのTwitter川上未映子さんのInstagramで紹介されました。

 

2018

『私的文芸年鑑』(2018年文学賞受賞作を読む)刊行

atami.booth.pm

「鍵の媒介する人間の関係性について」(企画エッセイ「鍵とはどんなものかしら」/『みのまわり vol.2』内)

福祉施設のパフォーマンス巡業を継続

 

2017

Wnt and Shh signals regulate neural stem cell proliferation and differentiation in the optic tectum of adult zebrafish.(“Developmental Neurobiology” Volume.77, Issue 10)

福祉施設をパフォーマンス巡業

 

2016

《差異の河原/re:write=re:live/進化の躍動》

道路拡張工事によって取り壊しの決まった奥村直樹宅兼ギャラリーDESK/okumuraの壁面に八千字の批評を毛筆し、ハンマーと墨汁で〈場〉ごと書き直す(=生き直す)パフォーマンスを行いました。

あたみんパフォーマンス《差異の河原/re:write=re:live/進化の躍動》 @desk/okumura - YouTube

 

2015

『あめあがり』主宰

著者の選定、紹介文の執筆、編集等を行いました。

また、掌編を寄稿しています。

atami.booth.pm

(2019.7.23追記)「すこしふるえている日記」を寄稿してくれた山階基さんの歌集『風にあたる』が出版されました。

風にあたる

風にあたる

  • 作者:山階基
  • 出版社/メーカー: 短歌研究社
  • 発売日: 2019/07/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

2015-2011

魂をもったバラ肉、人に懐く肺、予言、準因果作用子、サキュバス、イメージ、二重螺旋、マニュエル・デランダ、輪るピングドラム精神分析アレイスター・クロウリーカンパニー松尾、重力、ディオニュソス、放蕩者、アントナン・アルトー桜庭一樹、郡司ペギオ幸雄、コミックアンリアル大江健三郎、死者、廃墟、恩寵などについての文章を各種媒体に寄稿させてもらいました。

 

パフォーマンス巡業をする鴎として

ヒューマンビートボックス、フリースタイルバスケ、フリースタイルサッカー、ブレイクダンスの人々とライブハウス、ダンスホールプリンスホテルBMWスタジアムへ

 

巡礼者として

ストックホルム、ウィズビー、台湾、韓国、北朝鮮、ネパールドバイ、ポーランドノルウェースヴァールバル諸島ボン大学、コンスタンツ、ケルン、アーヘン、コブレンツ、シュタットガルト、インドネシア、ブキティンギ、フィンランドサンクトペテルブルクエストニアUCLA、サンディエゴ、サンフランシスコ、ニューヨーク、メキシコ、ウィーン、ハンガリーブラチスラヴァクロアチアモンテネグロボスニア・ヘルツェゴビナ

 

2010-2008

野毛大道芸や色々な学校の文化祭でパフォーマンス

生とジャグリングの包摂関係の余白はとても小さい

 

2007-2004

グラウンドの風と青空

海とハクリューが好き

 

2003

港に移住

 

2002-1993

雪国

 

 

山尾悠子『飛ぶ孔雀』について――消退・ノスタルジア・相転移点――

 『飛ぶ孔雀』が『不燃性について』に続くのに象徴されるように、というか本編で描かれていることだが、山尾悠子は「火を継ぐ」ことを契機として登場人物が火のモチーフのあるあらゆる道具を対象化したときに火種のようなものが喪われていくような世界を描いている。貨幣や情報が自己増殖のために人間の目的を事後的に捻じ曲げるのとは対照的に、人間が道具を使うと火としては縮減していく。火の喪失と並行して貨幣の交換が籤によって阻害されることと会話や噂話を素地としてコミュニケーションがなされることが描かれ、全体として自己製作する《道具》という今日的な光景が消失する。その過程を描くことそのものがノスタルジアを描くこととパラレルであり、綺麗な軌跡として作品(郡)を成しているのが本作である。

 

 〈私的〉に読めば高橋弘希送り火』(第159回芥川龍之介賞)と星野智幸『焔』(第54回谷崎潤一郎賞)もタイトルのとおり、〈火〉を題材としていた。三作に共通する運動は「火を継ぐ」ことである。

 高橋弘希送り火』においては、「育ちのいい」転勤族の語り手の感じる不吉さと青森の少年たちの秘めた土着の暴力性が「送り火」の祭りに収斂し、語り手が被暴力に曝されたとき、視界の端に送り火が到来する。土着の不吉さといえばジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』においても描かれていたが、本作は生まれ育ちを別の土地に持つ語り手が土着の不吉さそのものと距離を縮めていき、最終的に祝祭に収束する。

 星野智幸『焔』においては焔を囲む複数人の語り手(語り部)が互いが互いの物語の器となることで火を継ぎ、いくつもの小さな焔とその輪を形成する。

 どちらも形は違えど――一人の語り手が自らを犠牲にして送り火の器となるか、互いが互いの焔の器となり、複数の小さな焔を継いでいくのか――、人間が〈火〉の器となる。それに対して『飛ぶ孔雀』では「火を継ぐ」腹違いの姉妹は異なる器を持って儀礼的および象徴的に火を継いでいく。飛ぶ孔雀による阻害もあり、手ざわりの痕跡だけを残しながら「火」のモチーフをもつ文明の一部分だけが丁寧に消退していく。

 

 描写されていることの美しさ、筆致、についてはここでは評釈しないが、本作は今日的な状況をうまく捉えたうえで、〈火〉という〈燃え広がる〉性質の消退を〈不燃性〉として描くことで、〈貨幣〉や〈情報空間〉という自己製作/自己増殖する《道具》の作り出した世界のゆるやかで部分的な崩壊とノスタルジアを描きえている。〈火〉を効果的に媒体として用いた舞台設定が、現在の情報空間を足場としたものであり、その縮減において情報空間の特質だけを反転させている。この設計が情報空間および貨幣に強いられたものであるのか、作家によるものなのか、強いられたものであるとして、それを書きうるのは山尾悠子だけと思うけれども。

 

 ラトゥール、マクルーハン、セール、フーコー、レヴィ、ハイデガー、彼らの思想はある側面では自律性をもった道具についての予期であった。それは監視社会―今や作品のテーマとして一般的になり、テクノロジーが現実化しつつある―への警戒感や新たなメディアへの期待感、あるいは人間を再定義しうるものの到来予測として描かれた。

 今日これらの文章を読むと、中国の先進的な地域や欧米における大量な監視カメラの設置とその用途―行動パターンを検出し、犯罪リスクのある者を施設に収容する等―についての話であったと納得されるし、SNSのつくりだす巨大な情報空間は人生の行動原則さえも発信ベースに変容してしまう。薬剤の新規開発においては、入力後即時にコーディング・蓄積・個人情報のマスキングされるシステムを活用した解析ベースの研究の動きが加速している。― 入力されるデータはコード化ができるだけ簡単にできるものが好まれる。人間を診療している以上小説的な冗長性を含む医学データは、観察研究の観点では冗長性を含まない定量的な値と定性的な軸で評価されたイベントの側を好む。人の感じていることが医学上/臨床上どう評価できるかを判断するためには、他者に向かって越境し、主体としての手ざわりを把握する小説的な身ぶりが求められる。標準化のプロセスで削ぎ落とされた「その人の手ざわり」がデータに反映されたことを示す冗長な記録は、一定の記載規則に従ったものになると同時に、きわめて小説的なものにもなりうる。「痛みが痛い」という典型的に忌避される表現さえも妥当性をもつ―

 情報がその量および標準化可能性―貨幣との大きな違いはここにあるのだが―の増大を目指して人間の行動原理を変容させているかのようでもある。

 

 一方で、冒頭で指摘したとおり、本作で描かれるのは〈火〉の消退する世界であり、人間たちの振る舞いによって〈火〉は〈火〉自身を縮減してしまう。腹違いの姉妹の火を運ぶ儀式が飛ぶ孔雀によって阻害され、火を媒介とするもの―エンジン、蝋燭、ライター、煙草など―は機能不全に陥ってしまう。 腹違いの姉妹が火を運ぶ時点では、《道具》を用いる人は火を継ぎ、火は火自身を増大させることを目的とし、人間の目的を捻じ曲げつつも目的の一致を果たしている。 飛ぶ孔雀は外部系のように振る舞い、ときに火を失わせる。この振る舞いは(単)自然と(単/多)文化の二項対立における自然のクラシカルなメタファーである。この出来事によって〈不燃性〉が前景化し、文明を基底づける〈火〉〈貨幣〉〈情報空間〉が機能不全に陥る。情報交換が会話や噂話をベースとして描かれるようになったとき、その発話とは情報と手ざわりの混淆であったと再認させられる。道具が人間の目的を事後的に定義づけていた世界からのゆるやかな反転とそれに伴うノスタルジアが岡山を舞台に描かれている。それは好奇心のままに振る舞っただけでリソースが枯渇してしまう世界であり、貨幣や情報が物質性を伴って過剰に増大していく世界とは逆に、人間の行動によって、あるいは文明によって火が失われる。カオスとカオスの臨界状態として捉えれば相転移点の文学であり、相転移ノスタルジアを感じさせうるものだとわかる。〈情報空間〉が象徴的な人間の《道具》として扱われ、《環境》にとって変わり始めたときに失われる手ざわりについて、〈情報空間〉以前から真摯に文筆を行ってきた書き手は苦悩する。だからこそ久しぶりに書くことは喪われてきたことを仲間にし、死者/廃墟とさえも共存し、美しい描写を為し遂げうる。〈恢復〉という相転移の恩寵が真摯なものたちにあたえられる。そんな希望さえも〈不燃性〉のノスタルジアはあたえうる。その象徴的な出来事を、孔雀の飛翔がになうことの美しさよ。

 

 

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 上記の文章は『私的文芸年鑑』のために執筆された文章である。本書には2018年1月から10月までの文学賞受賞作についての文章と、それらを踏まえた実作(小説と批評)が含まれている。本文で言及した高橋弘希送り火』および星野智幸『焔』についても文章を掲載しているので、下記のサイトから手にとっていただければ幸いである。

atami.booth.pm

遡行ーー関係がうまれる瞬間の手ざわりを拾いあつめること(松家仁之『光の犬』を読んで書く)

 2018年1月から10月までの現代日本文学賞受賞作を媒介に、書くことと向きあう『私的文芸年鑑』のために執筆された文章です。

atami.booth.pm 「わたしが読む」という運動を介して、この時代の小説がもつ「手ざわり」だけでも書き残すことはできないか、そしてそれを「書いて生きる」仲間たちのために共有できないかとトライするなかで書かれました。

 書くことを習慣化することは「生きるように書く」ための閾を下げ、人生をつうじて文章の持続的な生成を行うことを可能にするかもしれません。一方で、言語の〈異化効果〉がもつ瑞々しさを恣意的なものとしてではなく、確率的なものとして捉えはじめることにつながります。〈文体〉は文章を書いたあとに見出されるから、「読まれる/読まれない」「私を表出する/しない」文体が本当に「これ」なのかという苦悩をわざわざ受肉することにもなります。誰かの代わりに受肉するのは尊い犠牲(あるいは冒涜)かもしれないけど、しばしば小説にはそういった使命感が必要になるのも事実です。

 『光の犬』は丁寧な描写とそれを積み重ねることに松家仁之が注力した形跡があらゆる箇所にあらわれる小説です。この成果を直接「書くように生きる」ためのヒントとして明日からの暮らしに活かすのもありでしょう。私は一度抽象化してから人生に活かしたいので、下記の文章を書くことからはじめました。

 

「神が『光あれ』と言ったのはなぜかしら」 「……どうしたの急に?」 「地は形がなく、ガランとしていた―というのも、宇宙の誕生の話みたいに聞こえる。いきなりそこから始まるのはなぜなの」(一八六頁)

 この小説で問われるのは、因果性への懐疑よりも根本的な、あらゆる物の相互関係である。自然と文化、モノと人間が分かたれる前の情景であり、カントの「コペルニクス的転回」よりも前に遡る試みが、高解像度の手ざわりある描写の併置を通じて行われている。それぞれの物が存在し、相互に働きかけ、そこに因果性や法則性が見出されるとはいかなることであるか、哲学史としては近代以前あるいは近代初頭の問題系へと立ち返る試みがなされている。

 

 人間たちの人生の瞬間を描くこの小説から因果性の懐疑およびそれ以前への遡行をするための跳躍は、血縁による影響に対する懐疑的視点からの検討を足場とする。

 

しかし川によってことなる魚の様相は、千年単位でつくりあげられた血のつらなりの果てにあるものだから、おなじヤマメでも、種類がちがうといってもいいのではないか。(二一三頁)

 

 種を同じくする魚でも、生まれ育つ環境によって様相が異なる。ここで言う環境は魚が育った山がどこか、川がどこか、ということを意味する。魚の血縁においては、育った場所が異なることが即自に異なる血のつながりを持つことを意味する。土地による影響と血縁による影響、そして各個体の持つ個性の差異は魚において問題にならない。土地を同じくすることは血のつながりを同じくすることであり、人間の個体の差異を検討する際に持つ解像度で魚の個体差を見つめることはできないのだから。

「影響があるとすれば、ポールの音楽にロックじゃない音楽の要素があることかな。だけどそれは血とかそういうものじゃない。家でくりかえしかけていたレコードをポールが耳で覚えていただけだよ。」(一一三頁)

 ジョン・レノンのロック以外の要素が、どこからきたものかについて語る場面である。祖父がアイルランド人で、移住の後にアメリカの歌手になったことについて、ジョン・レノンへの影響の有無を検討している。人間において、あるいは語り手遠く離れた人間においては土地や血縁は問題にならず、個の人生においてふれてきたものがその人を形作ると結論づけられる。

 

 一方で、語り手の一族の血統について検討する際の視点は、かなり歪なものである。

生まれたばかりのころからずっと、幼稚園、小学校としだいに大きくなってゆく歩を、イヨは見ていた。歩が四年生のとき、イヨは病気で死んだ。まもなく父が手に入れたエスは猟師にもらわれていき、誤って毒饅頭を食べて死んだ。どちらも牝だった。いま家で飼われている牡の北海道犬ジロは、歩の小さかったときを知らない。(四六頁)

 一緒に暮らしてきた犬たちを媒介した検討が行われる。犬を媒介としない語り手一族の語りもないではない。しかし、その持続を拒否するかのように、犬を媒介としない語りはたえず行き詰まる。

眞二郎と登代子の間に長女の歩が生まれた。とりあげたのはよねだった。(……)よねにとって初孫だったが、いつもの手順となんら変わることはなく、表情も同じで、特別なやりとりもなかった。歩が三歳の誕生日を迎える直前に、よねは突然、脳溢血で亡くなった。自分の孫をとりあげたのは、これが最初で最後になった。(二一六頁)

 《人間》の血縁が各個の人生について魚や犬のような《動物》と同じ解像度で検討するには、遡行に耐えうる血縁の痕跡が乏しい。いくつもの世代を遡行しながら起源まで辿り着くには、遡行に耐えうる《動物》を媒介として考えるという方法がありうるというわけだ。

人間である自分は、祖父母の名前までしか知らない。ところがイヨは、さらに二世代もさかのぼって、玄祖父母までたどることができるのだ。イヨの親族は、両親までふくめると三十頭もはっきりとしている。(二一五頁)

 《人間》あるいは個の問題、生の問題、持続の問題へのアプローチは、カント以降では多様なパースペクティブをもって自然を解釈すること、あるいはモノを解釈することの総合を通じて行われてきた。 しかしここにおいてモノや自然は恒常的で一貫した法則に従うものとみなされ、単一なものとして特権化されてきた。あるいはその欠如を前提とし、それを表象する過程によって語られてきたと言ってもよい。 しかし『光の犬』においては、自然―山や川と呼んできたもの―や動物―魚や犬と呼んできたもの―を固定化して人間―語り手の一族―を考える単自然/多文化的なアプローチを回避し、《動物》《自然》《人間》の境界を一度なきものにして小説における語りを行っている。

 

 犬⇒《動物》と《人間》の境界を揺らがせ、互いを見つめる眼―パースペクティブ―をあたえあい、またそれを受け取ることで一族の起源、あるいは一族という因果性―というか一族という因果性がどのように生じ、その過程で《動物》と《人間》がいかに分かたれたか―を検討している。

 

 語り手を総合する作者の試みに着目すると、あらゆる土地に登場人物を配置し、それを動かし、結ばれそうな血縁をあえて切断したしていることがわかる。この動力系は物語を形成する手ざわりによるものというよりは、ここまで考えてきた問題系について小説を書くという操作をしながら検討する手ざわりによるものに近い。

 

 動物と人間を、そして自然と文化が分かたれる前の状況を考察し、 因果性や法則性が見出されるプロセスを検討する試みとしては、思弁的実在論オブジェクト指向実在論と共鳴する。『光の犬』と同じく関係性そのものが創発する状況についてはグレアム・ハーマンが本格的な議論を展開している。

 

 個は複数の個にとって知ることのできないそれ自体の実在をもっている。それは個同士の関係性の外部にある。ハーマンは「深淵のなかに脱去している」とするが、光の犬においては各個による個人的な描写によって描かれる。

 

 しかし一惟は不思議なことに、「いますぐにでも信仰を捨て」というくだりの学生の抑揚に、彼のどこともしれない故郷の景色や親の話しぶりが透けて見えるように感じ、その一節を妙に気に入った。しばらくのあいだ、ときおりそのことばが頭によみがえるたび、一惟ひとりで笑顔になった。

 

 これらの感性が他の個によって知覚され、関係を持ち始める―ハーマンで言えば《脱去した》個が代替物を通じて他の個へ感覚を伝える―手ざわりを執拗に描いている。これらの描写は小説という媒介を通じて同一平面上に併置され、作者は改稿をつうじて自由にレイアウトしなおし、読者は読者自身の深淵に脱去した実在と自由自在に結びつける。

「どうしていつも、ああいう絵を描いてたの」 一惟は腕組みをして答えた。 「そのへんに落ちてたものをひろってきて描いてただけだけど」 そう言っていったん口を閉ざしたが、もう一段小さな声で「……きれいだなと思って」とつけくわえた。 (八八頁)

 歩と一惟は各個人に宿る脱去した感性について、手ざわりごと相手に伝え、代替物としてしか現れない各個のあり方を表出し、関係をつくっていく。一方でその固定化を拒むかのように土地や感情を通じて距離をおき、ふたたび別の仕方で各個のあり方を表出して関係を構築する。個のあり方を表現し、相手に伝えることそのものを愉しむかのように、関係を再配置し続ける。

ソータツがニコリともせずに、「そこが直ったらスムーズになるけど、つまらなくなるね」とそっけない声で言うのが聞こえた。(八六頁)

 個自身の抱くもの以外なにもないところに見出される《動物》と《人間》の区別も越えた複数の個の関係が生じる瞬間をもとめ、人間も犬も離別する。

 登山家が八〇〇〇メートル級の山の頂上をめざすのは、そこに樹木がなく、微生物のうごめく腐葉土もなく、空気さえはかなく薄く、囀りや水の流れる音や人のざわめきも耳に届かない場所だからではないのか。(二四四頁)

 離別と再会ごとに個を表出しあうこと、人と人との結びつき、複雑な感情という観点で、それは格別なものであるだろう。しかし、それを足がかりとして関係あるいは因果性そのものが生じる前段階まで遡行し、あらゆる先行する時代、過去とのつながり、動物や自然、無数の宇宙の存在がありながらこの宇宙に生きていることを通じて人生の瞬間を捉えなおすことこそ『光の犬』を呼んだあとも持続する生の醍醐味ではなかろうか。

 

 

 

おらおらで、さ。(第158回芥川賞 若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』を読んで書く)

 2018年1月から10月までの現代日本文学賞受賞作を読んで書くことをテーマにした『私的文芸年鑑』のために執筆された文章です。

「わたしが読む」という運動を介して、この時代の小説がもつ「手ざわり」だけでも書き残すことはできないか、そしてそれを「書いて生きる」仲間たちのために共有できないかとトライするなかで書かれたものです。私的な文章ですが、「書く」ことの普遍性にアプローチするための「手ざわり」は残すことができたのではないかな、と思います。芥川龍賞受賞作の『おらおらでひとりいぐも』を書いた若竹千佐子とわたしを結びつけるのは、北欧での「私的」な体験です。

 

 

「おらおらでひとりいぐも」という響きはなによりもまず幼少期を過ごした米沢の光景を思い起こさせる。米沢弁なのか判然としないが、異様に米沢弁に近く感じる。米沢といえばそれが何県であるかピンとくる人も少ないいかにも田舎の街を連想させるが、比較的学習に対する意欲や論理的な解像度が高い人が多く、生活の余白に日本古来のデザインが息づく土地だった。城下町の風土がそうさせるのか、あるいは明晰な血筋の人が多く住んでいたからなのか、故郷への思いが事後的にそう思い起こさせるのか。幼少期の八年間を過ごした郷土の体験は本人に無自覚なままに習慣として織り込まれている。「三つ子の魂、百まで」という警句が可能であるならば、三歳から十歳までの暮らしが二十五歳のあり方を規定していてもまったく不思議でない。

 

 今年の八月、デンマークを訪れた。「おらおらでひとりいぐも」を取り寄せた図書館ではデンマークのパンについての本を借りた。「大人になったらレゴランドに一緒に行く」。米沢の次に通った横浜の小学校で同級生と誓い、それを実現したものだった。大学二年生から「真冬の北欧に一人で行く」という習慣を継続していた。学部二年生でスウェーデン、三年生でノルウェースヴァールバル諸島スピッツベルゲン島、四年生でフィンランド、ロシアとエストニア修士二年生でアイスランドを訪れた。社会人一年目ではイギリスを広義の北欧と捉え、これも真冬に一人で渡航した。緑の湖水地方が一晩で白銀の湖水となったもこのときだった。

 

「真冬の北欧一人旅」は凍傷対策からはじまる。腰まで丈のダウンジャケットのうえに膝まで丈があるダウンを羽織り、ネックウォーマーや帽子など、ともかくもこもこのものを身につける。パンツはスキーウェアを流用するか、厚手のタイツを二枚重ねにする。スノーブーツを履き、雪の上で歩き回る術を保ちつつも、歩幅は極端に小さく、一歩一歩歩くたびにもごもごとした重みがある。雪に足をとられ、旅の動機を見失いかねないほど負荷がかかる。

 

「取り返しのつかない命のなかで、個人の自由や自立と、その反対側にある重くて辛いものも含めた両方を受け取って、人生を肯定的にとらえるまでにいたったのが見事」というのが本作に対する町田康の評だが、個人の自由と自立の代償の重みを踏まえたうえで一人で進んでいかねばならないという決意が「おらおらでひとりいぐも」という言葉なのだとすれば、体力のつききっていない小学生の私と北欧を旅する私が、真冬の雪国で結びつくのはこの精神においてだと感じられる。

 

 学部二年生のスウェーデン旅行は初めての一人旅だった。旅行の前には二回の気分が落ち込むプロセスがある。一度目は航空券を予約するとき、二度目は旅程を確定させるとき過程である。どちらもありえた可能性を剪定する瞬間だ。『百年泥』のような「ありえた可能性」が自然の流れのなかから噴出するようなことがあれば、何千人もの私が走査性のモナドのように世界中を駆け巡るだろう。この二回の縮減を乗り越えてしまえば、実際の体験が決められたプランの余白を埋め、体験を旅でしかありえない手ざわりで満たす。

 

 しかし初めての一人旅ではそうはいかなかった。航空券を購入したはいいが、現地に辿り着けるかわからない。辿り着いたとして、身ぐるみすべて剥がされて凍死する可能性もある。目的地は真冬の北欧である。心は不安で満たされる。元来不安と仲の良い気質である。空港で購入した本も不安を助長した。国際文芸フェスの手伝いを経てジュノ・ディアスに興味を持っていた私は成田空港のTSUTAYAで『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』が平積みになっているのを見つけて旅のお供とした。「ジュノ・ディアスは実はオスカー・ワオに嫉妬していた」とか「ジュノ・ディアスが自己投影している登場人物のスピンオフが“This Is How You Lose Her”です。これから翻訳されます。」とか「オスカー・ワオが初めてセックスする場面が一番良く書けた」とかの話を聞いていた私は、この小説がサント・ドミンゴの「フク」と呼ばれる怨念を導入としてひどい出来事や漂う不吉さを描いていると知らなかった。「知らない世界」で展開されるコメディか何かかと思っていた。もちろんコメディとしての要素はあるのだが、怨念渦巻く追い詰められつつあるものを巡って笑うことは気分を重くする。

 

 ストックホルムに私の知らない怨念が渦巻いていて、旅行者としてひどい目に遭うのではないかという不安にかられる。乗り換えの空港の清潔さと白いリノリウムの明るさが救いの余地のなさをあらわすように感じられた。

 

『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読むのはやめて、ターミナルを歩いてみることにした。もともと日本でも有名な好きだったH&Mやマリメッコのショップが楕円形のカウンターの影から姿をあらわす空間デザインに圧倒された。二〇一七年三月、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』ではこの手法の自動生成と執拗なまでの多用がされる。岩や山の向こう側から姿をあらわす集落たち。パスポートコントロールを抜けて北欧域内の国内線ターミナルに着く頃には日が暮れており、北欧デザインに没入するという本来の目的にフォーカスできるようになっていた。夕暮れのダウンライトとアルネ・ヤコブセンの椅子が安心をくれる。過剰なまでに光で照らす西洋と陰影を活かす空間づくりをする東洋という対比を谷崎潤一郎『陰翳礼讃』で読んだのが読書を習慣化し始めた頃の記憶としてある。自分でも文章を書くようになり、熱さのままに書いている間に筆を折り、再び静かな「書く愉しみ」からはじめるきっかけとなった『こことよそ』が谷崎潤一郎を穫る。この期間は二十五以上の国を旅し、東洋/西洋という対比の解像度が思考の足場の足場程度のものであったことを知る。幼馴染と訪れたコペンハーゲンデザイン博物館では「ノルディックデザインが(古風な)日本文化から受けた影響」というところがけっこうなスペースをつかって説明されていた。米沢の老人たちが暮らす民家に遊びにいかせてもらうのが好きだったことと、北欧の安心感が結びつく。私の「おらおらでひとりいぐも」という確信はこうやって持続する。出来事の私的な接続を生きる歓びとする過程には苦しさもあるだろう。コミュニカビリティの要求も阻害してくる時勢である。他者に伝えるのは難しい。けれどそれに苦悩するのは一度愉しんでからでもいいではないか。

 

おらおらで、さ。

パフォーマンス 《差異の河原/re:write=re:live/進化の躍動》

批評パフォーマンス

《差異の河原/re:write=re:live/進化の躍動》

f:id:thighcalves:20160209150455j:plain

【映像】https://www.youtube.com/watch?v=uxsOzG-10wA …

撮影・映像構成 中野稜允

 【日時】1/30 20:00〜

【場所】DESK/okumura(東京都中央区日本橋3-1-8)

 

批評家はーー他者に課したいはずの規範を当の批評家に課す。

堕落した〈場〉を自罰性において内破する〈一方通行路〉は、鑑賞による「死」後 此岸と彼岸を分かつ川の名を与えられる。

 

〈思考〉⇔〈停止〉

〈書き直し〉⇔〈生き直し〉

この「私」⇔普遍の「私」

普遍の「私」⇔普遍の「人」

 

道具と身体がひとつになったヒトの進化の運動。揺れ動きの躍動をいま、はじめよう。

百合小説誌「あめあがり」創刊

────芸術が境界を対象化しない逸脱であるように、百合とは、反復されうる様式ではなく、百合を対象化しない逸脱として複雑な関係を築くことである。

 

2015年11月23日、東京流通センターにて行われる文学フリマで、小説的なものを中心とした多形式創作誌「あめあがり」を頒布します。価格は500円。ジャンルは小説|百合、百合の拘束から解き放たれたなかで書かれた、いきいきとした運動のあつまりです。

2015年11月27日追記:こちらから購入できます。

同12月2日追記:馬喰町のアーティストランスペースDESK/okumura(東日本橋3-1-8)にて委託販売を開始しました。DESK限定で、作家・奥村直樹によるドローイング「やみあがり」が特典でつきます。

 

【収録作品】
山階基「すこしふるえている日記」
山階基:早稲田短歌出身、第60回角川短歌賞 佳作、第3回現代短歌社賞 佳作
未来短歌会「陸から海へ」に所属、黒瀬珂瀾に師事。
 短歌を含んだ2011年3月11日から2014年9月14日にかけての日記

 

溺愛「柔らかいつの」「身代金払えないね」「見た瞬間に殺してしまう」
溺愛:北大路翼賞
 「みもざが泣くたびにその猫っ毛の短いパーマからはぽんぽんと花や草が咲くのだけれど、その日の彼女は大荒れに荒れていて部屋の中はものすごい数の花びらで覆い隠されていた。一体なにがおきたのだと僕がみもざに尋ねると、みもざはピンクに上気した鼻をすすりながらこう答えた。
『リザがわたしと別れるって言うの。もうわたしたち三つの時からキスをして、五つでセックスをしたわ、リザの白い肌も黒くて硬い陰毛も、なめらかなピンクのヴァギナだってわたししか知らないわ、なのに、なのに彼女別れるだなんてわたしに言うの。』」

 

三七十「渋谷」「幾つ数えても君の夢」
三七十:KADOKAWA発想力ワークショップ2015 田丸雅智賞
「5つ数えれば君の夢」「レイニー&アイロニーの少女コレクション」についての文章を含む、「少女」を見る少女の詩篇とエッセイ

 

荻原健吾「阿梅」
共産主義圏のノスタルジアと百合を含んだ、中国を舞台にした掌編小説

 

まりこねこ「あめあがり」
憎みあい、傷つきあいながら愛しあう少女たちの互いへの思いを綴った完成しない修士論文

 

あたみん「ネクロフィリア
火災/紅葉/遺骸/食肉/腐蝕/奔流の鮮烈なイメージな連鎖の果て、愛憎の果てに詩を詠む火の少女が死姦を愛する水の少女を抱くとき世界は──純粋百合小説

 

 

 

 

展示「オントロジカル・スニップ」を“見て”――外部に対して頑強な〈失礼な作品〉についての試論

合同展「オントロジカル・スニップ」を見てきた。

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まず、Webサイトに書かれた展示の概要は以下のとおり

 

“ 芸術作品における「個性」あるいは「作家性」とは何だろうか。それが如何なるものであるかという問いも然ることながら、それを如何にして表すことができるのか、あるいは如何にして知ることができるのかという方法論も、私たちを没頭させてやまない。くり返し現れるモチーフや、制作に普遍的なテーマなどに注目すれば、作品の造形的な相貌あるいは概念的な位相の両面から作家の「スタイル」を語ることが可能かもしれない。しかし、目に見える所与の結果だけに拘泥するのではなく、私たちは作家の「内面」を追跡しようと試みるべきではないだろうか。そのためには、作品を完成された静的な対象として読み解くのではなく、それが生成されるプロセスを辿ることが必要である。

 作家たちは何を世界から切り取ったのか、何故それを切り取ったのか、如何にそれを切り取ったのか――これらの問いが、作品の現前化されるプロセスへと至る手掛かりである。ここでは各々が有する固有の分節を「作家性」と捉え、エピステモロジーに還元できない特異性にこそ思考を巡らせてほしい。”

http://hgrnews.exblog.jp/23342289/

 

 

 制作の過程を追わせることによって鑑賞者への異化効果を促しその知覚をよりそれらしくすることは、ひとつの重要な主題とされてきた。そのひとつの更新がこの展示には織り込まれている。

 入ってすぐのところにあるのが三木仙太郎さんの「庭の木の枝」。2mほどの樹の枝が置かれている。その周りに、枝を避けるように削りとられた幾つかの部屋の断片が接着され、枝を囲んでいる。部屋の断片、と言ったのはそれが棚状のものにとどまらず、A4ファイル用の書類立ても含むからだ。様々な角度からの鑑賞を促し、覗きこませるようなところがありながら覗きこむ際には木の枝が目に刺さらないように気をつけなければならない。夢中になりすぎると怪我するぞ、という危機感は、心地良い感覚で、また童心をくすぐる。

 壁面には名倉聡美さんのふたつの絵画作品、「鶴」と「逆上して来られた場所」。モネを思い出させる色使いで筆使いを極度に強調させた彼女の絵は、彼女の意図として描かれたような横顔や鶴と、偶然そこに見いだされる像の一緒くたである。わたしたちは彼女による制作の過程の無数の可能性を一度に追体験する。現前した作品に対していくつもの連想とともに前世のことまで思い出す「想起」と筆の流れを追う異化効果、カンバスの猛り狂った基底が押し寄せる、というような批評をするすると滑り抜けていく、あの絵画でしか伝えられない感覚がもっともそれらしく、まさに「見る」しかない、のだし、際限なく見続けるべきだ。

 2階には齋藤 帆奈さんの「存在と認識のあいだ」 壁面をスクリーンとし、投射するプロジェクターとの間にマニキュア・デカルコマニーによって模様の付けられた蝶と制作に用いられた百円均一のマニキュアが吊るされている。光源とスクリーンのあいだ、という存在と認識のあいだ、まさにベルクソンがイマージュを見出した間隙に、作品が置かれている。それが存在と現前のあいだ、であるのならばそこにデリダは遅延を見出すだろうし、ベルクソンの『物質と記憶』における比喩のそのままという論理的単純さを、蝶の個物性が阻む、という捉え方をしてみれば普遍と個物のあいだ、ということになり、間隙という部分が更に部分を生成する。この部分同士の貼りあわせと全体、にもあいだがあり、ひとつの作品全体と、鑑賞によって部分の張り合わせとなった作品のあいだもまさに「存在と認識のあいだ」であり、作品内部に織り込まれた関係性が作品と鑑賞者の関係性ととってかわる。「存在」と「認識」の描像が徹底的に動的であるのと対照的にそのあいだは徹底して静、であるかに見えて、よく鑑賞者と衝突して思わぬ動きを見せる。見ている間も何人かぶつかるし、こわれなくてよかった。さまざまの間でありながらさらにあいだを生成して揺れる。透明なアクリル板の上にも蝶が置かれていて、二階の床の一部がアクリル板になっているという構造を効果的に利用している。

 その対面には石橋友也さんの「金魚のコンポジションの実験」。本来流れのないところに棲む金魚を、流れのある中に泳がせることを試み、そのときの金魚の様子を撮影、映像の端と端をつなげ環状にし、それを鏡に写す。さらにその鏡を割り、そこに映った金魚を毛筆で描く。このプロセスにおける各ステップが、展示されている。石橋さんいわく、割れたガラスに映った金魚を毛筆で描いたものは、曼荼羅と要素を共有するらしい。つまり、流れのなかを泳ぐ金魚から曼荼羅めいたものを制作する過程を描いたものであるらしい。「金魚好きだったらこんなことしないでしょ」という台詞が倒錯めいてステキだった。

 

 この齋藤さんと石橋さんの作品との間に、二人の合作であり、この展示の表題作である「オントロジカル・スニップ」が展示されている。作家名と作品に対して与えられた感想をもとにセミラティスを作成し、その各点上に書かれた複数の感想の最大公約数的なモチーフを置く、という構成になっている。”鮮やかな”であれば試験官に挿された花、というような具合である。セミラティスとは何か。ラティス、とは様相論理における束であり、束は本来対称性を形作る。しかし、この作品で提示された束状のものはそれを逸脱する。つまり、簡単に言うとセミラティスのラティスとは束のことで、セミはセミファイナルのセミだ、ということである。準ラティスである。さらに、この「オントロジカル・スニップ」にはセミラティスの形成ルールからも逸脱している点が複数ある。一点目は、この束が下に閉じておらず、また、作家の名前全員と対にされた作品に与えられた感想が、空集合ではないという点だ。g:作家名(作家の作品に対するメニトミーと捉えても良い)、m:作品に与えられた感想とした場合、それらの要素をすべて集めたものをG、Mとして、上端は{G,∅}、下端は{∅,M}とならなければならないのだが、G={石橋友也,齋藤帆奈,名倉聡美,三木仙太郎}たる上端は、∅ではなく2つの言葉と対になっている。一方、下端は各作家一人とその作品に対して与えられた多くの言葉、となっていて作家名が∅となる点が存在しない。ただしこれは、「オントロジカル・スニップ」がセミラティスではないということを意味しない。この作品は、あるセミラティスの〈部分束〉なのだという。だから、{G,∅}とか{∅,M}は省略されているらしい。二点目は、与えられた言葉同士の上下の繋がりが、部分集合を取り結んでいないという点だ。包含関係か順序関係を形成するように束はつくられるのだが、その束の生成原理を徹底的に無視している。これではさすがに束はつくれない。しかし、言い換えを駆使して包含関係を形成するように作った、と言われれば、「はぁ、そうなんですか」(これが「失礼な感想」を対象化した作家がとるべき反応であるらしい。聞き流してしまうということ)、という感じで、「失礼な鑑賞」に対する作家の反応を真似るように、〈失礼な作品〉に対する鑑賞者の反応として、または作家の真摯さを信じた結果として、それを信じることは可能である。三点目、要素の貼り合わせたる各点に置かれた事物が、包含関係を持っていないことである。事物同士の包含関係を持たせる、ということは、この場合は簡単に事物同士を張り合わせてしまうことで実装できるはずだ。とりわけ〈失礼な作品〉は、「レディメイド」のものを各点に配置することもコンセプトとしているのだから。その手がありながらやらないというのは、事物同士を束で関係づけることをはじめから放棄していることにほかならない。

 要約すると、「オントロジカル・スニップ」の提示するセミラティスの部分束は、各作家の作品に対する認識として与えられた言葉はぐずぐずであっても束を形成しているが、その点上におかれた事物は束を形成しないばかりか、束を逸脱して個物として我々に様々な想起をさせる、ということである。

 この作品と対峙したとき、どのような関係を持つのかわからない「レディメイド」が線によってつながっている、という状態を目にする。一度身が硬直して、その背後になにやら作家名と認識から与えられた言葉のタグがついていることに気付く。そのぐずぐずな包含関係がセミラティスの部分束を形成していることがわかり、床に置かれたクリアブックにもその旨が書かれていることにも気付く。一見わけのわからない関係を持った事物は、実は単純な関係性しか取り持っていない。なんということはない、簡単にわかる単純な関係と、本当はない複雑な関係があるだけだ、とわかる。そして、束の各点同士に単純な関係性しかないことに動揺した結果、複製されて製造された製品を対応させておけば鑑賞者が勝手に硬直するだろう、というように、小馬鹿な顔をした鳥のソフビ人形を祝電のように装飾し、とりあえず試験管に花を挿しておき、というように行き当たりばったりで置いていったのではないかという推測が真実味を帯びてくる。となれば、身を一度硬直させ、アルトーの言うような死を経てより荒唐無稽な生へと転生するような、石になることを私たちに許してくれるのではないか、という期待を持たせてくれた要求してくれているかに見えた作品は、各点に凝集した言葉に対して安易にものを選んで置いただけの〈失礼な作品〉、ということになる。

 束を用いた〈失礼な作品〉の生成原理に、関与していたのが存在論的なアプローチではなく極度に認識論的なアプローチであることを知ったとき、当初は「エピステモロジカル・スニップ」という題がしっくり来るはずであった〈失礼な作品〉は、ハッタリのようにして行き当たりばったりに「レディメイド」を置く局面で「オントロジカル・スニップ」という題に変更され、そこにまたハッタリを効かせたように思えてくる。「オントロジカル・スニップ」という題が先であれ「レディメイド」が先であれ、ハッタリと行き当たりばったりを推察させることに変わりはない。

 

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「オントロジカル・スニップ」の企画書ではないが、epistemological-snip(仮)という題をなにか作品につけようという構想はあったようだ。

 

 行き当たりばったりに作品がつくられること、これを批判しようという向きもあるかもしれない。しかし、わたしはこれを採用しない。どの程度の計画性を伴った意図や当初の予定からの変更なら行き当たりばったりではないのか、というような生産性のない話になりかねないし、「環境」や「メディウム」は、その行き当たりばったりな変更を私たちに促す。例えば、絵画の制作において、基底材が筆を押す力や画材の吸着率は決定できないのだし、それを受容することは行き当たりばったりさを伴う。つまり、意図や当初の予定から、作品というものは乖離して当然のものなのである。デュシャンの「芸術係数」の議論はまさに、この乖離を前提としている。「芸術係数」とは、要約すれば、生ずる意図や当初の予定と作品の乖離に介在する係数であり、制作の工程において生ずるものである。制作のあと、そのままの大きさを保って行き場のないかに見える「芸術系数」は、今度は作品の鑑賞を呼びこむ器になるのである。その意味で、制作による意図と作品の乖離がある限り、鑑賞者なき作品というものは構想できなくなるのだ。ここにおいて制作の行き当たりばったりさは擁護される。「芸術係数」の萌芽となるからだ。ある種の行き当たりばったりな制作は、シュルレアリストの運動にだって、見出すことはできる。もし、そこに作品が現前させているのにも関わらず、作家さんが意図に拘泥する、ということがあれば、それは「芸術係数」を0に近づける試みにほかならず、今度は鑑賞を拒絶する方向へ向かうだろう。

 

 ハッタリについてはどうだろうか。この種のハッタリは作家さんによる説明によって隠蔽されている。ハッタリが煤けて見えても、それに目をつぶって知ったことを言わなければいけない感じがしてくる空気感は蔓延しているし、過度な説明がそれを助長する。説明を前提にした作品が多すぎる。例えば、石橋さんによれば「金魚のコンポジションの実験」も「オントロジカル・スニップ」も、曼荼羅をテーマに作品を作ってみたい、というところから始まった作品であるという。「金魚のコンポジションの実験」の色使いや筆致は曼荼羅のそれであり、「オントロジカル・スニップ」におけるセミラティスの幾何学性は曼荼羅における神の配置の幾何学性の写像なのだという。石橋さんによれば。私はブッダの生誕地のルンビニで寺院巡りをした経験があり、それなりに多くの曼荼羅を見てきたのだが、色遣いや筆致は曼荼羅のそれというようには感じられず、むしろ書道のそれであるように感じられたし、そもそも束は幾何学的模様を示さない。包含関係を示す結びつきが提示されていたり、順序関係が守られてさえいたりすればその距離感はなんでもよいのだ。しかし、曼荼羅がどのようなものか知らず、束がどのようなものかも知らないままに作家さんの説明を聞いてしまったら簡単に騙されてしまうだろう。

 

そしてこの隠蔽は、ハッタリをかましてある種の露悪性でもってそれを現前させていく、という手法を取るアーティストとは全く異なっているのだ。この隠蔽は、なんでもないようなものを何かあるものとして見せているにすぎない。「レディメイド」によってアートが、「なんでもないようなものを何かあるものとして見せているにすぎない」のではないか、という問いが鮮烈に作品によって提示された頃とは事態が異なっている。時間が過ぎた、とかそういうことを言っているのではなく、鮮烈であったはずのこの提示が、カント美学に端を発する〈芸術というものの問題が芸術を見出す主体の問題にすり替わってしまったこと〉と手を結んで、芸術でもなんでもないものでも、とりあえず現前させてさえおけば芸術を見出す主体だと思われたい鑑賞者が勝手にそれを芸術化してくれる、というサイクルが廻り続けているということを言っているのだ。カント美学に対する極端な単純化を行って文脈として共有してしまったことが問題である。鑑賞者が「それは芸術ではないぞ」と何かのアート作品に対して言ってのけたとして美的主体を剥奪されるということはないのだ。他者との摺り合わせを行ったとしてもそれは、ポジショントークにしかならない。作品も鑑賞者も共に客体なのではないか、という思想領域さえ既にある。そこにおいては能動/受動、ということも問題になる。

 

 この状況は時代的なものなのだろうか。例えば、「理想の時代」、「虚構の時代」に続く「不可能性の時代」として芸術を見出す主体になることが不可能になったような気がする、とか、循環する思想的流行のなかでそういう時期にある、リベラルアイロニズムの再来、とかいうことはあるのだろうか。循環史観めいたものは様々な時代の様々な領域の思想家によって提示され、その相互が矛盾している。まず、サイクルの年数からして異なっているのだ。煎じ詰めれば、局所的に自らの示した循環史モデルにあうようにサンプリングしてきて、それを取り纏めただけのものが散見される、ということである。それらの取り纏めはそれぞれがそれぞれに明晰さをもっている。大局的に見た際にもそれに拘泥する、ということがあればそこに明晰さは欠片もない。複数の循環史が矛盾を孕んでいるところにどのような描像をつけていくか、というところにまた批評家の腕の見せどころがある。ならば、「不可能性」などのタグを大局的に見てつけていくことはそれこそ「不可能」かもしれない。しかしこれは、芸術の特質であると思う。この時代にタグをつけるという試みは、政治、社会、経済、歴史を接続するために行われたものであった。それらにまつわる時代総括的総評は、未来を演算する装置としては優秀でも、哲学や芸術の問題に何も与えない。哲学や芸術は、総評を対象化しないままにたえず逸脱し続けるからだ。それと比べたとき、「とりあえず現前させてさえおけば芸術を見出す主体だと思われたい鑑賞者が勝手にそれを芸術化してくれる」というサイクルを利用した種類のアート作品は、タグを逸脱するというよりはむしろ、それらの安易さを排除する機構を欠き、書き手の精度を信じるしかないような総括的総評(ここにも書き手の精度を勝手に信じてくれるだろう、という欺瞞を持った書き手が入り込むことが在る)に奇食するだろう。

 

 〈失礼な作品〉は芸術と開裂を挟んだところにある時代総括的総評から逸脱しないところでアート的批評性を捏造し、捏造を隠蔽する、というような感想そのものが「失礼な鑑賞」として対象化されてきたものであり、「はぁ、そうですか」と言われてきたものである。製作者が束だとか曼荼羅だとか説明してくれているものに対して整合性がないからといってそもそもの作家さんの「意図」を無視していいのか、というところがある。〈失礼な作品〉と「失礼な鑑賞」が互いに互いを増長させる。作品を立てれば鑑賞が立たず、鑑賞を立てれば作品が立たない。そのはずなのにここまで強固に作家さんの意図よりもエビデンスを優先した〈失礼な感想〉を述べてきたのは、「オントロジカル・スニップ」に用いられた束から創発する論理が、矛盾を共立させることに用いられているからである。GとMが同時に両方の要素を充足することがないという双対構造を、どちらにも寄り添うことなく共立させて現前させるのが、束の特質だからだ。制作者の意図を無視して論じることと鑑賞者を無視して展示することの双対構造、その共立が可能となるのが束の性質である。

 しかし、これは完全な束の場合のことである。「オントロジカル・スニップ」に用いられた束において省略されているのは作家の側ではなく、作品に与えられた感想から抽出した言葉の側である。作家全員の集合には作家が抱いた感想が対応し、作者の意図を無視した鑑賞は作品から排除されている。現前した作品と意図との乖離=「芸術係数」を完全な束の一部をカットすることによって系の外部に追いやること、それは作品を鑑賞するための器を系の外部に追いやることだ。もしくは、「芸術係数は無視します。」 芸術係数=0、ということではない。意図と作品の乖離=鑑賞の器はどこかへ行ってしまった。さよなら芸術係数。だから、〈失礼な作品〉のままでよいのである。はじめからその反対側にある「失礼な鑑賞」は作品の中に織り込まれることを拒絶されているのだ。作者を不在とするような作品の鑑賞によって与えられる感想ははじめから黙殺されている。〈失礼な作品〉は鑑賞されても制作者の手を離れない。エビデンスに作者の意図は介在しないからこの部分束には含まれない。「見られる」ことに対する頑強性をそなえた作品である。「オントロジカル・スニップ」には〈失礼な作品〉が現前することの整合性が鮮やかに示されている。

 

 それぞれの作品について書いてきたが、批評家の飯盛希さんは、未だ前景化していない。出展者一覧に、ひとりだけ批評家として参加している飯盛希さんである。批評家としての参加とは言っても、キュレーションとして参加しているというわけではない。キュレーションをしないという形での批評家としての参加だ。「ただ、並べる」、まず「見る」という仕事。むしろ、黒子に徹している飯盛さんの仕事が前景化するのはこれからであるようだ。背景の前景化は芸術のひとつの重要な主題でもあるし、そこで飯盛さんが批評家としてどのような仕事をするのか、とても楽しみである。私が楽しみにしているのは、飯盛さんが展示や作家に対してどうポジションをとるか、ということではない。重要なのは、批評家として何を指摘し、説明し、軽妙な芸を見せ、展示に参加している批評家として他の批評家たちをどう煽っていくか、ということである。